前回、佐渡金山が世界遺産になった理由をお話ししました。
今回は、佐渡がトキにとって住みやすい環境になっていったのは佐渡金山がきっかけだったのではないか説をお話しします。
◆5万人が食べる、着る、住む
江戸時代になり、佐渡金山が開かれました。
硬い山を砕き、掘って。
あふれる地下水を24時間体制で組み上げ、穴の中でたくさんの人が上り、降りする。
掘り出された鉱石を、取り出し、選び出し、分離する。
その金で小判を鋳造し、それを運び、船で搬出する。
とにかく人手が足りないので、島内だけでなく、島外がからも人が集まり、集められていきました。
当時の相川の人口は5万人にもなったと推定されています。
一度、佐渡の相川に来ていただけるとわかりますが、海辺に山が迫っているような場所で、そんなにいたなんて信じられないです。
想像してみてください。
彼らは何を食べるのか?何を着るのか?どこに住むのか?
すべてを供給する必要がありました。
◆物流の拠点・佐渡
金銀山では様々な「物」が消費されるため、たくさんのものが供給されました。
北前船は佐渡にも寄港。
全国各地から物資が集まりました。
佐渡に全国各地の陶磁器が持ち込まれました。発掘調査で、様々な産地の陶磁器が出土しています。
金の道が作られました。金銀の搬出、奉行・役人の往来。
人とモノが動くことで、産業、経済と文化が発展したんです。
◆佐渡島内の食料供給
作れば作るほど、相川で売れる。そういう時代でした。
(1)タンパク源の供給
延縄漁法(姫津):画期的な漁法が導入されました。
四十物(あいもの):塩漬けにした魚、天日干しの半乾燥魚。
(2)米の供給
周辺の段丘開墾(鹿伏、小川など):海成段丘を田んぼに
(3)野菜の供給
砂丘地での野菜生産(八幡など)
佐渡中が、相川を支えるために動いていました。
◆技術の伝播
金山で使われていた技術、例えば岩を砕く道具や低いところから高いところに水をくみ上げる技術などが、農業にも応用されました。
◆食糧難と棚田などの開発
5万人が住む相川。
米が足りない。
全国から人が集まってきたので、最初は税をかけました。でも百姓一揆が起きてしまいます。
そこで幕府は方針を変えました。
「自分たちで開墾してください」
これで、農地開発が一気に進みました。

<主な棚田>
北片辺棚田、小倉千枚田、岩首昇竜棚田。
急斜面を切り開き、石を積み上げ、一枚一枚田んぼを作っていきました。
<新保川扇状地の開発>
新保川扇状地での大規模な水田開発は、江戸時代初期に始まりました。
国仲平野の本格的な開発も、この時期とのことです。
<地すべり地形の活用>
前浜海岸地域(赤泊)では、地すべりでできた地形を利用した田んぼが多く作られました。
平らな土地が少ない佐渡。使えるものは何でも使う。工夫と努力の積み重ねでした。
<半島部の工夫>
大佐渡(北部)、小佐渡(南部)、半島部。
大きな川がない地域では、巧みに水を管理し、稲作をしていました。
二見半島のため池、宿根木の横井戸。
水を確保する知恵が、至る所にあります。
◆なぜ佐渡がトキの最後の生息地になれたのか
森林(マント群落)と農地の間に形成された草や木で構成される植物群落は「ソデ群落」と言います。
人間が生活のために切り開き管理することで、ソデ群落が大きくなり、「里山」と呼ばれる場所が形作られます。
単純に山に木が生えているだけでなく、背の低い植物も繁茂できるようになると、そこに様々な動植物が集まってきます。
棚田、ため池、湧水、段丘の田んぼ、国仲平野。
金山をきっかけに、佐渡の自然は人の手によって開発され、結果として、生物多様性が高まった環境が作られました。
なぜ、佐渡がトキの巣みやすい環境になったか。
答えは、ここにあります。
セクション1でお話ししたとおり、ねぐらを作る森があり、すぐ近くに餌場となる田んぼやため池などがあり、餌が豊富にあるわけです。
トキにはうってつけの環境だったわけです。

昔は相川金山のある北部大佐渡や、国仲平野でトキが見られたというのもうなずけます。
このように、佐渡がトキにとって住みやすい環境になっていったのは佐渡金山がきっかけだったのではないかと言われています。
佐渡金山→人口増加→食糧需要→棚田・水田開発→多様な環境→トキの生息地
この流れ、見えてきましたか?
セクション2はここまで。佐渡金山が、いかにしてトキの生息地を生み出したか、お話ししました。
次のセクション3では、「『トキ』を佐渡の『仕組み』として考える」。
トキを大切にすることと、佐渡の魅力を創り、佐渡を佐渡らしく守ることを両立させる取組をご紹介します。
コメント